◆自分の「理解者が欲しい」と強く願っていたこと

私の場合は、両親ともに非HSPで、周りも非HSPばかりで、

何かが大きく自分とは違っているのを感じ、その違いはいったい何なのか、

なぜ周りは自分の気付くことに全然気付かないのか、なんでそんなに鈍くて神経ず太いのか、

他にもいろいろ訳がわからないことがてんこ盛りで、いつも不安だったし、いつも違和感がありました。



実の親からもどこか否定されているような感をいつも感じており、

自分のことをそのまま丸ごと認めてくれる人、理解してくれる人が皆無の状況だったため

自分をわかってくれる人が欲しい、

自分の「理解者が欲しい」というのが子供のころからの、とてもとても強い願いでした。



でも結局、私の場合「この人なら私をわかってくれるかもしれない」と思った人は、全部、私の勘違いでした

そのときは「この人ならわかってくれるかも」と思っても(願望も強いため相手に投影してしまう)

後になって「実は全然(またはほとんど)わかってくれてない」と判明してくるのでした



結局、人ひとりを丸ごと理解することなんて大変なこと、できる人はこの世に誰もいないのかもしれません。


誰でも、その人のやるべきこと、「人生の課題」みたいなものがあるので、そんな暇なんてないのかもしれません。


必死だった頃は気付かなかったのですが、少し落ちついて考えてみれば


そして自分を第3者の立場から見ればわかることなのですが

もし自分の目の前に「私のこと、わかって欲しい。理解して欲しい」という過去の私のような人が現れて、

そんなことを自分に望んできたら


「えええっ?」とちょっと困惑してしまいます。



私自身の経験では、「理解して欲しい」とは言われたことありませんが

以前、友達グループの中に、


「なんで私にかまってくれないの?●●ちゃんは私に気を使ってくれるのに、あなたは全然よね」とか


「なんで私に声かけてくれないのよ?(同じグループなんだから声かけてくれて当然でしょ?)」的なことを、

冗談でなく本気で言ってくる人がいて、非常に困惑したことがあります

(この人も、バレエとか習わせてもらっていたりして、お金には不自由はしていないものの、
家族不在の機能不全の寂しい家庭に育ち、いつも寂しそうで陰のある、
家庭的にはあまり恵まれていない可哀想な人だったと思います)


でも、そう言われても、私はその人には全然興味がなかったし、別に話したいと思ったこともありませんでした。

そして、その頃の私は、ただ学校に通うだけでいっぱいいっぱい。

毎日の学校生活で、神経が疲れ果ててクタクタでした。

正直なところ、その人のために使うエネルギーは私には残っていませんでした。

そんな感じだったので

「は?なんで私があなたのために、そこまで気を使って無理しなくちゃいけないわけ?私の勝手でしょ?」

と正直なところ、思いましたが、相手の気持ちのあまりの強さに押されてしまい、何も言えませんでした。


あまりに相手が当然のように言ってくるので、そのときは「えっ、もしかしてそういうものなのかな?」とも思ってしまい

「なんか変だよ?」と頭の中が「?」マークでいっぱいでしたが、言うとますますこじれそうな気もして言えませんでした。


でも、私もそんな風に言われるとちょっと心外で、反発も感じたので自分の行動を変えることもなく、

その後も、その人の私に対する不満は溜まりっぱなしだったのですが

その人はどうも「私がその人を無視している」とちょっと被害妄想?みたいに私を責めてきたので

なんだかとても困ってしまいましたが、私は単にその人に「興味がない」だけの話です。

(誰しも「興味ない」人っていると思いますが、本人にはそんなこととてもじゃないけど言えませんよね


その人は、毎日どこか疲れている私を見て、自分と同類、だからわかってくれると思ったのかもしれません。


人との相性とか、縁って、不思議なもので、相性の合う人や(自分が何かを学ぶために)必要な人には

不思議にご縁がありますが、そうでない人とは無理してもうまく行きません(それはお互いにそう)


向こうはなぜか私に固執しているのですが、私のほうはほとんど相手に興味がないのに

かまって欲しい的なことを言われても、正直なところ、ますます興味がなくなりうんざりするだけなのですが、

同じ状況が、捉え方と立場によって、こんなにも違うのだなあとその時はびっくりしました。


でも、あの時は、相手が傷つくと面倒かもと思い口に出しては言えなかったけど、

「それって変じゃない?」と教えてあげた方が親切だったかもしれないなあと、後になって思いました。


でも、言ったとしてもたぶん思い込みの激しそうなその人にはきっと理解してもらえなかっただろうなという気もするし、

たぶん当時の私ではうまく説明できなかっただろうとも思います。



人間関係は、お互いに相手に惹かれる点、お互いに相手が必要だと感じる点がないと、

片方が無理して付き合っても、無理は続かないものだし、強引に縁を作るのは良くなく、

そういうことをすると、かえってトラブルになったり災いを呼ぶことが多いように私は感じています。


出会いが欲しいなら、出会えそうな場所に行けば見つかるのかもしれませんが

無理やり探しても、あまりいいことないように思います。


また、自分に大きな心の傷があるときはなおさら注意したほうがいいと思っています。

「引き寄せ」によって、自分と同じような傷を持った相手を惹き付けてしまい、

まるで2匹のハリネズミがお互いを傷つけてしまうようにお互いを傷つけ合い、

お互いの傷をさらに広げてしまったりすることも多いです。


私は子供のころから、いい大人になるまでずっと、「自分の理解者」を渇望し、探し出そうとしていましたが

ちょっと引いて、自分の立場を離れて、相手の身になって考えてみると、また違う世界が大きく開けて見えてきます。


そして、

「相手は私を理解したところで、相手にとって、何か良い事、何かメリットあるの?」


その答えは・・・・?????


もちろん人間関係は、「メリットだけでは測れないよ」という考え方もありますが、

人間も生物。生物は、生きていくために、個体のメリットや快を求めるのは当然です。

なぜならメリットや快のある環境のほうが生き残りやすいからです。

それは誰しも遺伝子に刻まれているものです。

だから生きやすい環境や、メリット等が得られないと、生物としては次第に弱っていきます。


心が辛い時しんどい時、弱っているとき等に「何か好きなことをしなさい」とか精神科のお医者さんはよく言うようですが、

それはたぶんそういう理由からだろうと思います。


好きなことをする、魂が喜ぶことをする、「快」を求めて進むのは、生物としてはとても正しいことですので

遠慮しないでどんどんやったほうがいいのです。

(逆にあなたが好きなことをするのを禁じる人には注意しましょう)

ただ、その場限りの非常に刹那的・快楽的なことを追い求めてしまうと、さらに強い刺激を求めるようになり、

脳のホルモンバランス等がおかしくなり、人生破綻してきますのでそういうのはやめた方がいいです。



ちょっと脱線しましたが・・・



心が飢餓状態のままで出会いを探そうとすることは、実は自分自身を危険に晒してしまうことがあります

「引き寄せ」のことを知っている人はご存知のとおり、

自分の心理状態が悪いときには、あまり良い出会いはありません。


それどころか、自分の心にぽっかり穴が空いていたり、心の飢餓感が高いほど、

知らずに人に利用されやすくなり、人に付け入る隙を与えてしまうこともあるので要注意です。


心の隙があればあるほど、そこに、付け入る隙を与えてしまうことになり

そういう隙に入り込んでくる事がらって、世の中、山ほどあるので

心に隙がある状態とは、とてもとても危険な状態なので注意したほうが絶対良いです



私の場合は、結局、「私を理解してくれる人」というのは、どうも見つかりませんでした。


「見つけよう」という気もなくなりました。


自分を理解してくれる人は見つかりませんでしたが、

私自身が、自分で自分を理解し、周りを理解することができたので、それでとても満足し、

自分を理解してくれる人を探すなんて大変なことをする気もなくなりました。 

(それは広い浜辺の砂の中から金一粒を探すようなものなのかも)



それに「私を理解してくれる人が欲しい」と強く願っていたのは、

「自分のこと、そして周りを自分が理解できなかったから」そう願っていたのかもしれないと気付きました。



自分が(したくても)できないことを、相手にしてもらいたい、相手に肩代わりしてもらいたいという気持ちです。

自分ができないことを相手にしてもらえれば、ラクかもしれませんが、これって、ある意味「相手任せ」です。

そんな自分にとって大事なことを、相手に任せてしまって、相手に背負わせてしまってもいいのかな、と思います。

それに、それって本当に、相手次第です。


心に迷いがあったり、傷を負っているときに、相手のことをきちんと正しく判断するのはとても難しいです。

相手に対する期待が大きすぎて、見えなくなっている部分や、勘違いしている部分がかなりあったりします。

よく考えると、かなり危険なことだとは思いませんか



「自分の理解者」は結局、私の目の前には現れませんでしたが、結局、それが一番良かったのだと、後になって気付きました。

「自分が自分の理解者になる」ということで、私の場合は解決しましたし、それが一番だと(私は)思います。



それに人ひとりを完璧に理解するなんて、誰にもムリなんだと気付きました。


自分だって、誰か人ひとりを丸ごと完全に理解することなんて、できません。


「だいたいこんな人よね」くらいはわかりますが、相手が今何を考えているかなんて、(わかるときもありますが)

もちろんいつも全部わかるわけがありません。

それにもしかしたら、自分自身のことだって、自分で全部わかっているとはいえないかもしれません。

たとえ理解したと思ったって、それは「だいたい理解した」程度に過ぎないと思います。


相手にしたって、同じです。


そんな無理なことを、私は周りに求めていたのです。



そして、人に自分を理解して欲しいと思うのって、相手にとっては相当負担かもしれないとやっと気づきました。


人にそんなことを求めるなんて、とても迷惑な考えを持っていたな私、とも思いました。




悩みが深いと、周りが見えなくなる上、周りに重い負担をかけてしまうことがあります。

(だから悩みがあまりにも深過ぎる人からは、人は去っていきます)



どんな方法にせよ、自分を納得させることができれば、

それで人は満足することができるし、それで幸せを感じられるものです。


そしてその「答え」は人から押し着せられたものではなく、

「自分で」考えて自分で到達するからこそ、自分を納得させることができます。


「自分の答え」はその人それぞれで少しづつ違っていて、その人の「オリジナル」であるべきだし、それが自然です。



自分が子供を育ててみて、子育てに関して、特に大切なことのひとつに、

子供を全面否定しないということがあると考えています。

自分自身を全面否定されてしまうと、子供は自分がそこに存在していいのかがわからなくなり、

世の中に恐怖心を持ってしまいます。


(だからこそ、子供を自分の手元から手放したくないと考える親は、
子供を必要以上に怖がらせたり、否定して自信をなくさせたりすることがあります)



誰しも、家族や周りに否定されながら育つと、自信を持つことができません。


子供をある時は認めて、ある時は手ひどく否定したり

言うことと行動が真逆だったり、ダブルバインドっぽい矛盾した接し方をする親もいますが


それは子供を混乱させたり、精神の均衡を失わせるだけです。


でも、たとえそういう親に育てられたとしても、いつまでも親のせいにしていても、自分の人生が何も始まっていきません。


まだ何も始めたくない気持ちや、自分を癒す時期ならそれでもいいですが、

勇気を出して一歩踏み出してみると何かが変わってきたりします。



失敗してもそこから学べばいいだけのことだし、失敗して初めていろいろ気付いたりわかったりするので、

失敗しても、結局は得していた、と後からわかることって、実は凄くたくさんあるのですが


でも、否定されてばかりだと、失敗することを必要以上に恐れてしまうようになります。


全然失敗しない人間なんて、いるはずもないのに。



自分の中に強い欠乏感があるときは、それを埋めようと急ぎ過ぎて、周りが見えなくなってしまいます。


その心の隙に付け込んで来る人も、残念ながら世の中にはけっこういるものなので

人には頼らず、

そういうときは、自分で自分の心を癒してあげるのが一番です。



方法としては、好きなことをするのがいいとかいいますが

好きなことをする気力さえないときには、とりあえず自分がほっとできる時間やスペースを自分に用意してあげるのです。


神社とか、海岸とか、河川敷とか、温泉とかは、オススメです。

私も疲れたときはふらっと1人で神社を散歩したり、学校帰りに、海をぼーっと見に行ったりしていました。

(学校の通学電車の終点が海沿いだった。ただ終点まで電車に乗って海を眺めて戻るだけ)


知っている人にぼんやりしている自分の姿を見られたくなければ、誰にも会いそうにない少し遠くに行けばいいし


近場でも、穴場みたいなところは、探せばけっこう見つかるものです。



狭いと思っていた世界は意外と広くて、あなただけのスペースと時間を、この世界は用意してくれています。


(でも世の中を恨んでしまうと、見つかりません。
自分が放出しているそういう気持ちは回りまわってまた自分にそのまま返ってきます。
そうなると良いことないのでしない方ががいいかも)


もし自分が不安や恐怖を感じているのなら、その不安がどこから来ているのか、何が怖いのかを、紙に書き出してみて

原因を探ってみるのもとても良い方法だと思います。

ブログに自分の気持ちを書きつづるのもとても良いです。頭の中が整理できるのでオススメです。

書いていると自分と同じようなことを考えていたり悩んでいる人がこんなにもいるもんなのかと驚きます。


嫌なことや不安に思うことの共通点を探ってみると、

自分がいったい何を恐れているのか、何がわからないのかがわかってきます。


混乱しているときには、ひとつひとつ、整理してみると、少しづつスッキリしてきます。

それでも「何かが違う。おかしい」と思うときは、やっぱり何かが違っています。


結局、私の場合は、HSPの自分を自分なりに理解し、周りの非HSPと比較し、

違いを理解することで、気持ちが落ち着きました。



混沌としていた世界が、やっと自分の理解の範囲内に収まった、といった感じでした。


自分なりに、世界を、自分の周囲を理解すると言うのはとても大切なことだと思います。


「わからない」「意味不明」「理解不能」ということが、一番の恐怖だからです。



でも理解とは、「自分の感覚を基に他者を理解する」ということだと思うので


まず自分の感覚を認めることからすべてが始まると言えます。



たとえ周りのすべての非HSPに、「自分の感覚」を否定されたとしても、

自分だけは自分を信じてあげても良いと思います。


周りに否定されるなら、なおさら自分くらいは自分を信じてあげないと可哀想です。

感じていることも、考えも、変化することはもちろん誰にでもあるものですが

とりあえず、そのときの自分にとっては「その自分の感覚は自分にとっては正しい」ということで良いと思います。


とにかく、誰に何といわれようとも、自分にとっては、自分以外の感覚は持ちえないからです。

そこを否定してしまうと、なんだか訳がわからなくなってしまいます。



それがたとえ人と違っていたとしても、自分の感覚を、自分だけは信じてあげたほうが良いと思います。


間違っていると否定されてしまいそうならば、黙っていればわかりません

自分の感覚をひとつひとつ自分で認めてあげていると、自分の中で、

少しづつ、でも着実に、だんだん何かがムクムクと形作られて出来てきます。



そして「やっぱり自分の感覚は正しかったんだ」と納得し、安心するのもとても良いと思うし

「あの頃の自分のあの部分は勘違い、考え違いをしていた」ということを後になって発見できたとしたら、


それはそれでとても大きな進歩と言えるのではないでしょうか。

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